昭和54年9月27日   朝の御理解

                    
 御理解第23節
 「氏子が神と仲善うする信心ぞ神を怖れるやうにすると信心にならぬ神に近寄るやうにせよ」                 
       
 いよいよ信心の有り難い勿体ないと言う事を分からせてもろうって、いよいよ神様と仲良うする信心。いわゆる神様と合楽しあえる世界をめざさなければなりません。
 いよいよ合楽理念をもってまずよいお導きを頂き信心によらなければ頂けない有り難い勿体ないを頂かしてもらい。しかも昨日の御理解ぢゃないですけれども面白うなるような信心。白神先生は言うておられる、ここでは愉快になると言っていますね。    
 信心は嬉しう有り難う愉快にまでと。白神先生は毎日毎日御祈念をなさる、拝詞の中でそれを言っておられます。有り難う嬉しう、そして面白うなる信心と言っておられますね。
 本当に、言うならば善導寺、勿体島、椛目と常持、合楽という事てございますよね。善導し善導を受ける。まずよいお導きを頂かなければ絶対に神様は分かりません。ねそこからいわゆる勿体島、本当に私ぐらいな者に神様がこうまでして信心を教えて下さる、おかげを下さる。お徳を下さろうとする働きが、本当にこのような働きになって現れてくると、もう一切が有り難いものであり勿体ないものであるというところが分かってくる。ね、例えば痛い痒いの事に至るまでです。
 その善導を受ける事によると、どういう事になりますかと言うと、神愛と分かるんです。ね神様が憎うてあなたをいじめなさるとぢゃないですよと。あなたに本当な事を分からせようと思うて、または本当に力を与えようと思うてのそれなんですよ、と金光様の信心はね。「どういう事でもおかげにしていくのがお道の信心です」と、これは大牟田教会の初代が言うておられたと聞いております。金光様の御信心はどういう事があってもいいと、けどもどう言う事でも、それをおかげにしていくと言うのがお道の信心ですと。
 ところがなかなか信心が間違いますとね。信心しよってもこんな事になるとか、また信心しとっても、不幸な事がおこるとかと。だからそこまでで止めたら不幸な事なんですけども。その不幸な事のおかげでと言うものをです。私共が頂かせてもらう時にね、初めて神愛という事が分かり、いわゆる勿体ないと言うた事になるんです。 先日からお話を、ある福岡の婦人の方ですけれども、子供さんの難儀な問題、それに主人の事、または姑親であるお母さん事、それが、お参りをしてくる。そしてどうかしてやっぱり信心が分かりたいとこう思うておられる。ねだから私はどういう信心させてもろうたら、ここから助かる事が出来るだろうかと言うも、本当にそう言う悲しいまでの、また悔やみ事ばっかりがお届けであった時に。四五日前、私が「ここはね、例えば銀行に金借りにいくごたる気持ちで参ったちゃ出けん。も今日を境にね、明日はどういう事、お礼を申し上げようかと言うた気持ちになんなさい。明日はどういう事をお礼を申し上げようかと思うて、今日から考えて来なさい。あなたの周辺にお礼を申し上げる事がいっぱいあるよ」と言うて申しておりましたが。                         それから丁度子供さんが熱発されて二日ばかり参りが出来なかった間にも、本気でその事を考えた。ねそして分からして頂いた事は。おかげで信心が出来ますと言う話であったと、昨日か一昨日かしましたね。  昨日、高松和子先生が、ここでお届けするのに、その方といろいろ話させて頂いて、信心の心の飛躍と言うものは本当に素晴らしいですねて言うて、まお話をしたと言うのです。その方お母さん、姑親と言う人がもう嫌いで嫌いでもうそれこそツラを見るとも好かんちいうごと嫌い。だからお母さんもやっぱそうらしいです。
 それでも大変手のいる子供さんを持っておられるけれども、その子供さんをそのお母さんに、例えば守りをしてもらうとか、見てもらうとか言う事はもう絶対にせんと言うような。あのもうかたくな心と申しますかね。けども同じ家の間に住んどってね。もうお母さんのツラも見ろごつなか。だから向こうもそうに違いはないね。
 それでもそこから親子の仲のおかげを頂きたい。どうしたなら親子が仲良うなるぢゃろうか、有り難くなれるぢゃろうかと言う事は、いつも考えておっての事ですけれども。ね親がこう言うた。こうしたその態度がもうどうにもこちらにカツンと来て。昨日は一日、その悲しい思いをしたと言ったようなお届けでしたのがです。ねおかげで信心が出来ますと言うことになってきたらですね。丁度成程その日は一人で参ってきてあったんです。
 私は聞きもしませんでしたけれども、和子先生が聞いたんでしょう。そしたら今日はね、もう本当に嬉しい事がありましたと。今日はそのあの子をね。「お母さんすみません、お参りしてくる間見よってください」と言うてから、したらそれこそ二つ返事でね「はあ早よ参って来んの」と言うてから、もうこんなに嬉しい事はないと言うようにして、お母さんが子供を預かって下さったと言うのです。もうお母さんはムズムズしちゃったぢゃろうと思うですね。    もうお母さんには、お母さんが見てやりよっても、こう引き離すような、こげなお母さんからは見てちゃもらわんと言うようなね思いが、いつもあるもんですからね。お母さんに預けて来るなんて事は全然、言うなら考えても見ろごつない、嫌なお母さんにです。二日間、いろいろ思わせて頂いて本当に何をどう言う事をお礼を申し上げようかと、言う事をお礼を申し上げさせて頂いておったら、あれもこれもおかげである事が分かったがです。
 そう言う難儀の中に、こう言う修行をさせて頂くという事が有り難いと言う事が分かってきた。ならこのお母さんのおかげで自分は信心が出来ると言う気になってきた。そしたら今まで嫌いで嫌いでたまらん、子供も預けようごつなかったのにね。お母さんすみません参ってくる間とこう言えれる心の状態が開けてきた。
 もうそれこそお母さんはそれを二つ返事で受けられたと。はあ、よかどこやなか、早う参って来なさいとこう言う事であった。もう、それこそ嫁入って来て、あんなお母さんの顔を見た事は初めてぢゃったと言うて昨日は喜ばれたと言う話しを高松和子先生がここでお届けをしておりました。ね、変われば変わるもんですね。
 それこそ善導、よいお導きを受けるからそう言う有り難い勿体ないという心が生まれてくるんです。ねそこからいよいよ信心の喜び、言うならば椛目である。木偏に花ね。心に信心の喜びの芽が出て来た。信心ちは悲しい事のように苦しいから参りよる。ただ苦しい所から逃れたい逃れたいと言う信心ではなくて、その事のおかげて信心が出来ますと言う。その辺のところからも本当、手のひらを返すようにね。見易い事なんだけれども、そこがなかなか出来ません。 そしてその椛目の世界、言うならいつも信心の喜びの花が心に咲いておる。それを常に持ち続けさせて頂く、常持ね。だからここまでの信心ではいけないと言うのです。有り難い有り難いと言うておっても何かのちょっとひっかかる事が起こってくると、もう有り難くなくなってくる。 
 実はひっかかる事があるから有り難いのです。ね心にふっと不安な事になるような事があるから有り難いのです。いや時々は本当にこれほどの信心の喜び。私は本当に信心のおかげで安心のおかげを頂いたと思うておる。その安心の心までもそれこそ無残に切り刻まれるように、それがなくなるような時がお互いあるでしょうが。
 昨日の晩でした。私は丁度十二時ちょっと前に、ここにお礼に出で来ます。そしたら親先生の出られるのを待っとったと言うてここへ来た修行生がおりました。来年学院に行くわけです。今一生懸命で信心修行させて頂いております。二十五日の研修の時に、一緒に研修を受けながら有り難い事の、ま目をつむって御礼をさせて頂いとったら初めてこれが御心眼と言うものかと言うその御心眼を頂いたと。と言うのはね。Z『一本の茄子をね。縦に切り横に切りしておるところを頂いた。そして一番最後のところがポトッと下に落ちたもんだか、あらっと思うたところでその御心眼から覚めたとこう言うのです』皆さん、合楽で御理解を頂きよる方ならすぐ分かるでしょね。どう言う事か、分かるでしょう。
 ナスビと言うのは、ここでは安心のお知らせを頂く時にはね、ナスビのお知らせ。今私が申しますように本当に信心のおかげで信心の喜びの芽が出て来た、椛目である。そしてその喜びの芽を育てさせて頂いて常に自分の心の中に信心の喜びが頂けるようになり、どう言う心配な事があっても、どう言う腹の立つような問題があっても。腹も立たなければね、喜びも消すような事がないほどしに有り難いなあ。常に喜びを持ち続けておられると言う事は信心のおかげだ。神様のおかげだと思うておったら。ある日、突然、それこそまあ言うならばびっくりするようなとでも申しましょうかね。それこそ今まで心にもっておった喜びがいっぺんに消え失せるような、今までもっておった安心が切り刻みされるような事がまあ起こったと仮定してごらんなさい。                    はあ、自分の信心はまあだ本当なものぢゃなかったなあと、分からないけんです。そこでんなら、それではいけんと言う事になる。合楽はもうすぐにそこに見えておるね。神も助かり氏子も立ち行く世界。いよいよ神と仲ようする信心。その喜びの心を持って神様に接する、私は神様に接していくと言うのは、そこから本当に接していくんだと思うんですね。 
 ただ難儀があるから困っとるから一生懸命に参りよると言うのは、あれは接しとるとぢゃないです。ね、それこそ神様を遠くから拝みよるとと同じ事です。信心の喜び、信心の有り難さ、信心でなければ得られない心の安らぎと言うものをです。頂いてその心で合楽に向かう時、その心で神様にいよいよ向こうていく時に初めて神と仲良ようする信心が生まれてくるのです。神様に接近する事がいよいよ出来るのです。
 そこから神と氏子と仲良うする信心と言う事が出来ます。それから生みなされるおかげと言うものはもう無尽蔵です。限りがないです。もう勿論喜びも消えるような事もなかならければ、よし切り刻まれるような事があっても、一つもそれこそ信心する者が、これから後どう言う事が起こっても驚いてはならんと仰せられる、驚かんですむ信心がそこから確立されてくるんです。
 ね、その福岡のそれこそ姑親の顔が見たくない。おそらく姑親の方もですね。私が日々お届け聞かしてもろうて本当に、それが親の言うごつぢゃろうかと言うような事を言うたり、されたり態度にとられるという事ですが。こちらもそれが好かんで嫌いでたまらんとぢゃけんで心の中でいつも斗うとるわけですね。
 それがなら善導を受けた、ね本当にここには悔やみ事ばっかり持ってきちゃでけん。苦しい事があるならお届けせなならんけれどもその苦しい事をもう一歩向こうの方を見て見なさい。御礼を申し上げる事がいっぱいばいち。今日も帰りから今度お参りする時にはあの事も御礼を申し上げよう。この事も御礼を申し上げようと御礼を申し上げる事を探しなさい。そして二日間一生懸命、その事を思って、はあほんにもしこの子がこげんでなかったなら、とても私は合楽まで金光様金光様と言うてお参りするような事はなかっただろう。 この子のおかげで言うならお参りが出来るようになったと思うた時に信心の喜びが湧いてきた。信心の喜びが湧いてきたら、ツラも見ろうごつないト言うお母さんが、もうこの子供をお母さんにだん、抱いてだんもらわんと、もう抱いてだんござるとグルグル引っぱって来るごとあったお母さんがですね。
 それ程嫌いぢゃ嫌いぢゃと言うふうに思わんようになった。そして何とはなしに気やすうお母さんすみませんちょっと子供を見取って下さいと言えれるようになった。もうこげな嬉しい事はない。  ところが、それを待っとりましたと言わんばかりにお母さんが、はあよかよか早よ参っておいでと言うて、こころよう子供を預かって下さった。ここからなら親子の仲が言うならばいわゆる仲良うする親子の信心が生まれてくる事でしょうね。ですからそう言う、幾日か前まではそう言う難儀を言うなら担っておったと言う事は、十字架を担っておった事でしょうね。        
 それを心一つで十字架を言うなら十の字にしたと言う事になるんです。私はお道の信心のいうなら、合楽の信心の素晴らしいというのはね。本当に自分なめぐりが深いから因縁が深いから罪深い自分だからと言うような間はです。神を恐れおののいておる姿ぢゃないだろうかと思います。
 神を恐れるようにしてはならぬ。自分が罪深いとか因縁があるからと言うふうな考え方は、いうならば神様から恐れておる事だと私は思うです。ね、それを私共の心一つでです。十字架を十の字にした。もうその時点からね。言うならプラスがまたプラス、有り難いものがプラスしていくような働きが生まれてくるんですね。
 だから他宗他派で例えば、こういう心の状態を開かせて下さる教えなんか、教えと言うものはありませんです。やっぱり因縁は因縁、罪は罪だとして教えます。だから人間が助かりようがなかったのが過去数千十年の宗教だという事になりますね。      
 金光教祖はそう言う素晴らしい言うならいよいよ神と仲良うする手立てをですね。善導寺、椛目、常持、そして合楽と言うように誘導して下さる。ただ信心の喜びだけに浸っておるというだけぢゃなくて、その喜びを持って神様に向かう時に、いよいよ合楽世界がある。合楽世界に住む事が出来る。
 合楽し合える世界、そこから生みなされてくるおかげは限りがない、無尽蔵。ね、なら合楽世界に住んどっても、どう言う事でも、降る事もありゃ照る事もありましょうけれども、または吹く事ありましょうけれども。それを言うならば有り難しで受けていく。神様がこのようにして、より鍛えて下さる、よりお徳を下さろうとする働きとしてそれを受けていく事が出来るようになった時に、いよいよ神と仲良うする信心が出来ていきよると言う事になるのぢゃないでしょうか。
 ここの修行生が頂いておりますように、それこそ安心を切り刻みそしてその為におかげを落とすような事もありますけれどもね。そこから言うならば合楽を目指してもらう信心にならせて頂いたらね。いよいよ、あいよかけよでの働きが生まれて来ていよいよ神様とそれこそ密なるまでの交流が交わされるようになってくる。
 もうおかげを落としそうにも落としようがない。ね、信心を落としそうにも落としようがないね。先日から御理解頂いてるね。十里の道を九里半登っても安心してはならん。それを登って向こうへ降りたら安心ぢゃとおっしゃるようにね。その向こうへ降りた世界が合楽の世界ですね。いよいよ合楽世界を目指さないかんです。私がおかげを頂く、私が喜びに浸ったらそれでよいというぢゃない。その喜びを持って合楽に向かう、いよいよ神様に向かう時、初めて神様に接近するという事が出来るのです。
 だからいろんな難儀とか問題、心にひっかかると言ったような事は、あれは天地の親神様が私共に秋波を送っておられると同じです。秋波って分かりますかね。言うならウインクしておんなさっとです。私共にね、私共と交流したいと言う神の願いがそう言う難儀とか困ったとか心にかかると言ったような事に、それを私共がね。気付こうともしないね。そして私はどうして不幸福であろうかとかね、もう本当にこの世は苦の世だ、苦の世界だなと言うような、言うなら自分から求めるようにして十字架を背負うていこうと言うような生き方ではね。本当のおかげの世界に住む事が出来ない、合楽世界に住む事が出来ない。
 神と仲良うする信心とは結局常持まで来たら常持でとどまらず常に喜びを持ち続けれる、そう言う喜びをね。いよいよ神様に喜んで頂くような信心に表された時、言うなら信心の真が表された時ね。 いよいよ日勝り月勝りだけではなくて年勝りだけではなくて代勝りのおかげにつながっていく信心がそこから出来ると言う事になるのです。その向こうには、それこそ貧争病のない真善美に輝く世界があります。それをここでは合楽世界と言うておるわけですよね。 「どうぞ」